因果応報は存在するのか?

嫌なことを言われたり、されたりした際、私たちは相手を恨みます。

その恨みから、私たちは『因果応報』っていう言葉が本当に存在するのか? ということが気になります。

どうにも恨みを持つ私たちは復讐心に燃えるが、やり返したいが自滅してくれるのが一番嬉しいと思うもの。

自分の手は汚したくないけど、相手には同等以上の苦しみを味わってもらいたい。この感覚が恨みですが、私たち自身も、この恨みの心に縛り付けられて苦しい感覚がします。

この恨みから救われる為には、相手が自分にされたこと以上に苦しみもがくことで、スッとするといいますか。許せるような気がするかもしれません。

ので、余計に苦しめてきた対象への憎しみという終着を手放すことがなかなか出来ません。

この記事では、因果応報のメカニズム的な理解をしたうえで、どのような対象をとればいいのか? について説明していきたいと思います。

因果応報の根源『間違えた創造』

私たちは、生きていながら共に創造をしています。

人間関係などでは常に共々がふたり揃えば、そこに創造が生まれます。未来が生まれていくんですね。

その未来が誰かを犠牲にして出来上がるようにした創造の場合もあるし、誰かを奴隷のように扱う創造の場合もあるし。

もちろん、両社共々、同意の上で成立する創造のこともあります。

このうちの『どこかに犠牲を産むことで出来上がる想像』というやり方をする人がいます。

そして、その創造の根源的なものとは精神世界のあり方にかかっています。

つまり、精神世界を現実世界に起こした際、自分の精神に犠牲がある場合、その犠牲は現実世界でも必要とされるということですね。

因果応報の因果とは、自分の精神にある――ということです。

精神を現実に転写する際、創造の中で犠牲がある場合、その犠牲という存在を誰かに押し付け、自分は犠牲の上に成り立つ君主という立場をとる方がいらっしゃる。

こういう方には犠牲という役割を押し付けられた人達からの恨みをかいます。ニーチェ的にはルサンチマンと呼ばれるような感じでしょうか。

この記事を読んでいる方の多くが、自分の中に誰かの犠牲になったことによる恨みがあるかなと思います。

 

因果とは精神にあって、因果が現実に起こされる場合、誰かを犠牲にしなければ成立しない創造を行う人がいるってことがまずはわかっていただければいいなと思います。

因果応報が成立するメカニズム

では次に、因果応報は成立するのか――ですが、前述通り、因果は精神にあるんですね。

精神が創造を起こした際、そこに精神に犠牲がある場合、その犠牲という役割を必要とします。

つまりは、誰かを犠牲にする人の精神には依然として『犠牲者の自分』が居続けています。

その犠牲の役割を誰かに与え、搾取者側に自分が同一化を果たすというやり方をしています。

因果応報とは、そもそも、搾取者のなかには犠牲者がいて、その役割を誰かに押し付けているってことにあるかなと思います。

ですので、因果応報は成立していく仕組みが見えてくるかと思います。

つまり、犠牲となった側の人間が「お役目、お返し申しあげます」と役割を返上することで因果応報は成立していきます。

これは、自分自身が恨みに囚われている限り、返上ができません。なんなら、相手に恨みという形でエネルギーを与え続けているようなものなので、相手はますますエネルギーを得ていきます。

恨みが糧となってどんどん良い状態になっていきます。

そもそもの目的には『恨まれること』であって、そうやって人の気を引いてエネルギーを得ている人たちもいるってことですね。

誰かがいなければ自分が成立しないっていうか。

 

では、因果応報として、犠牲側が断ち切ったらどうなるのか――です。

まずエネルギー供給が絶たれてしまうのと、次に、相手に押し付けていた自分が帰ってきます。

その際に何かしらの利欲を満たしたものがあるかなと思います。それが崩壊しちゃいます。

つまりは『創造の破壊』が起こるんですね。

わかりやすい事例をあげていきますね。

会社勤めしていて、それは自分がいい役職を得るために必要な犠牲が必要だった。この場合は、役職を追われます。

家族関係を円滑にしていくために、捌け口を必要として外にサンドバックという犠牲が必要だった。この場合は、家庭が破綻します。

たいていが、何かを犠牲にしたうえで何かしらのメリットという利欲を満たす構造をしていますし、そこに良心が働かない人っているんですね。残念ながら。

どこにどのような犠牲があって、どのような利得を得ようとしているのか。それは当人しか知り得ませんし、基本的に当人は『利得を得ようとしている』という意識がありません。

誰かのおかげで自分が存在しているという感覚がないので、犠牲にしていることにすら気づきません。あえていえば、それが普通な感じです。

犠牲にするのは、同じように犠牲という意識を持っている人を選びますので、犠牲側にまわった人たちにも同じような精神的なメカニズム構造を持っていて、搾取者側に回っていないだけって話でもあります。

復讐心があるのも、搾取者側にまわりたいという欲求に近いものがあり、結局は同じ穴のムジナという状態かなと思います。

相手と自分は違うと思うかもしれませんが、結局、どっちに『自分が同一化を果たしたのか』というだけの話でもあります。

そして、犠牲側が搾取側に反転を起こした際に復讐心が成立していきますが、それこそが自分のなかに眠る『怒り』でもあります。

同時に『依存』でもあります。どちらのも依存心があって、その依存心が断ち切られれば、因果応報は成立していきます。

犠牲側にも、搾取側にも――です。

搾取者である対象者を断ち切る方法

基本的に搾取側は断ち切ろうと思うことがほとんどないかもしれないです。

断ち切れるのは犠牲側だけです。

もちろん距離を置いたりする事もあるんでしょうが、根底には「何かが怖い」があるので、逃げれば逃げるほど追いかけてくる人もしばしばいますね。(恐怖で犠牲側を追い詰めることで何かしらの利得があるんですな、恨まれれば恨まれるほどに利得がある創造メカニズムを持っている)

では、犠牲側に出来ることとは何か――ですが「関係ない」と断ち切ることです。

犠牲側は「あいつのせいで」と思っているかもしれませんが、それが相手にとっては思う壷。エネルギーくれてありがとう状態になっています。

あいつのせいで。それは犠牲側が関係があると思っているということです。

相手の創造は相手の創造で、その創造世界に私は参加しません、関係ありませんと切り捨てていくことが大事です。

言わば、犠牲側とは他人の創造世界に否が応でもまきこまれ、そんな役回りを押し付けられている状態であり、もし、恨みや復讐という心理が自分の中にあったとしても。それは、案外、自分の感情ではなく、相手の感情だったりするんですね。

相手が自分に恨ませている構造があって、相手の創造に巻き込まれているということ。

つまり「恨まない」「関係ない」と切り捨てることは、相手の言いなりにならないってことです。

自分軸を取り戻すということ。

この時、相手の創造による配役が終わっていきますので、相手がどうなっていようがどうでもよくなっていきます。

手放しが完了していきます。そのうちの、いつか情報が入ってきます。

想像が破壊されたという情報が。それまで「関係ない」を突き通すのが良いかなと思います。

アファメーションするならば

恨むようなことをしてくる人は恨まれたいんです。

以下アファメーション。

恨みません、関係ありません。あなたの望みを叶えることはできません。

私は私の望みを叶えます。自分軸に戻ります。

対応チャクラは喉のチャクラ

因果応報における対応チャクラは、喉のチャクラにおける第5チャクラです。

第4チャクラに因果たる精神があります。

精神がどのような状態なのかを第5チャクラで具現化させていきます。

喉のチャクラと言われるとおり、言葉で支配をしてきます。

支配された側は洗脳にあい、自分の中に恨みがあると錯覚します。

第5チャクラは創造ではありますが、同時に誰かを洗脳させる力があります。

その原動力として第4チャクラの精神があります。

心が誰かに支配されているとき、創造もまた支配となり、誰かを洗脳したりして自分の望みを叶えるようになります。

根底には利欲という自分の願いを叶えるにはどうすれば叶うのか――というやり方の違いです。

本来は、共に創造していくところを、相手を贄として扱い、自分だけが願いを叶えることができるという形にしています。

基本的に、支配的な創造をおこなう人たちは、ハートのチャクラが閉じており、恐怖と不安にまみれています。

その恐怖と不安をなかったことにして創造を行うために、支配という構造を取らざるを得ません。

因果応報が起きる際、精神的ショックを受け、再び精神の立て直しを余儀なくされます。

その際、利得として得たものはすべて手放されていきます。

 

創造とは共にするものです。

イザナミとイザナギが共に創造をしたように、互いの心を合わせて行うことが成功になります。

しかし、なかなか心を開くことができなかったり、心を合わせられないとき、創造が洗脳や支配によって、相手を犠牲として行うことがあります。

しかし、失敗は失敗なので、得たものは水に流され、すべては更地に戻ります。これが因果応報による結果です。

結果を得たら、振り出しに戻ってやり直しのことがあります。