
管狐さんは、実践的には何もしない系キツネです。

管狐さんがいるなら、カボチャはぼろもうけじゃん。そう思うかもしれません。
しかし、管狐さんとの関係性にも、ある程度は縛りがある。
それは、
何をしてもいいよ。でも、最初から丸投げは禁止!

ということで、私の行動には自由があります。
すべてをうかがい、すべてを聞いて、その通りにするわけではありません。
飽くまで私が主体性を失ってはなりません。
私がここに投資をしたいと興味を持った場所のなかで「これはダメ」は教えてくれますが「これがいいよ」ってときはほったらかしです。
どれをどのようにするのかは私の自由意思が尊重されます。
つまり、1~10まで、すべてを管狐さんが決めてくれるわけではありません。
これは、毎日、私が行動を起こす。次に、管狐さんからの夜のお達しを待つ——という感じでやり取りをしていくことになります。
管狐さんは、私が投資をする際の見守り隊。めっちゃ危険なことを始めると怒られますが、それ以外は特に怒られません。少しお金が減るぐらいでも「経験には大事なのかな?」って感じでほったらかされることも多々。
私自身も管狐さんに

など、聞きません。
自信がないとか、そういうこともありません。自信があるわけでもありません。
ここにあるものは好奇心なのかもしれませんが、好奇心でやりたい放題やって失敗することは管狐さんからするとちょっとどうなの? ってことなのかも。
なので「イエス」は必要がありません。必要なのは「ノー」だけであり、私が安全に生きている限りは、すべてが管狐さんからすればイエスです。
私はいつも「イエス」と思う方へ生きているので、管狐さんからしての「ノー」を教えてもらっています。
ちょっと躊躇があるときなどは、時期をずらされたりとか。知識を入れるように流されたりなどがあります。
本当に「ノー」のときは、トコトンそこにたどり着くことが出来ませんし、目的が達成されません。強烈な耳鳴りがしたりもしますし、そのあとにその理由を理解したりなどもします。
とりあえず、管狐さんに丸投げはできません。
管狐さんは、私がとても危険なことをしないようにするためのアドバイザーであり、見守り隊。
そんななかで私は自由に投資をしていきたいと思います。
スピリチュアルにあたっては依存は大敵です。
管狐さんに依存してはいけないし、スピリチュアルにも依存してはいけません。
自分のなかにある直感を信じることも大事ではありますが、その直感が嘘を吐くこともあります。
一番は、自分の心に耳を寄せて生きていくことなのだと思います。
この直感のありどころをしれば、それが純粋なイエスなのか。それが純粋なノーなのかがわかります。
人のなかには否定と肯定がどちらも共存することがありますが、私たちは現実に対しての事実に対して否定と肯定を繰り広げている限り、安全の道を進むことが出来ます。
しかし、人は「イエス」のほうにしか進むことができないですし、斜め後ろ45度の死角にはどうしても気づくことが出来ません。
気づかない部分にある45度の死角を担当するのが管狐さんですし、直感ですし、未来予知です。
そして、それを信じるべきかどうかは、自分の心が一番によく知っています。
危険を察知して私を守ろうとしているのか。
それとも、危険がないのに勝手に危険を生み出しているのか。
自分の心だけが答えを知っている。
為替という投資などは、スピリチュアルとはまるで関係のない世界観ですし、このやり方は危険かもしれません。
とはいえ共、私は私の意思で動こうと思います。そのうえで何かサインがあるのであれば、それはちゃんと拾ってやっていこうと思いました(^▽^)/