自己統合と善悪という洗脳について│自己統合をしよう⑶

自己統合シリーズを作っていたのですが、前回にどのようなことを書いたのか忘れています(-人-)

今回は、自己がなぜ分離し、なぜ統合されていないのか――等の原因にて善悪のという洗脳的な問題を発起させます。

 

私たちは、あれは良い、あれは悪い――という考えがありますが、実際、私たちには善悪を決められるほどの神の裁きができる全知全能性はありません。

私たちが言うところの善悪とは、好き嫌いと自己都合の問題でしかありません。

つまり、自分にとっての視点が善悪を決めているのであり、この世に善悪など存在しません。

例えば殺人においても善悪はありません。

ただ、この日本では殺人は刑務所行きですし、自分にとって都合が悪い結果となり、憲法には殺人をしてはいけないというルールがあるってことです。

これは善悪ではありません。そういうルールなんですね、この二十世紀の日本では。

しかし、第二次世界大戦時における日本大帝国のときにおいて、殺人が正義の時もありました。そういうルールでした、私たちにとってその方が都合が良かったからです。

時代背景によりけり、私たちの都合は変わります。

このように、私たちの中には善悪がありますが、この善悪は思い込みや洗脳に近いもので現実にあるものは、事物(存在)と現象のみってことです。

それに対して私達も色々な都合がありますから、とやかく思い事があったり、感情が生まれたり。そのひとつに善悪が生まれたりします。

今回は、善悪という視点に絞っていくと、私たちの自己分離に関係していることがわかります。

私たちは、私たち自身の都合によって、都合の悪い自分が生まれます。

都合の悪い自分が自己という存在にしばしば分離していきます。

これは子供時代に、まだ、物事の判断が難しい私たちは、親から善悪を与えられます。

子供は、していいこと、悪いことの決まりを守りながら育ち、あるとき、自分で自己判断をできるようになっていきます。脳の発達が健全に進むとそうなります。

その時、私たちは自分で判断ができるようになるとき、自己統合を果たしていきます。

自己統合が出来ない原因について

ただ、親によっては子供のためではなく、自己都合のために子供に悪を教え、分離させてしまうことがあるんですね。

あなたのためを思って――が自己都合である親は、子供に自分にとって都合のいい悪を教えていきます。

支配したり、操作するためですね。

このときによく使われてるのが、恐怖感情です。恐怖を教えられて育つことになります。

その恐怖が多くが親に捨てられることだったりします。つまり、親への恐怖を持つ子供はとってもいい子になりますので、監理しやすい子供になります。

このように、恐怖を持たせて悪を教えた場合、恐怖によって自己統合を果たすことが出来なくなります。

一番は、自己統合に必要なキーワードは心からの感謝です。

自分の都合のために子供に悪を教えてきた親に対して、その考え方に感謝が出来ません。

感謝ができないので、悪を受け入れて自己統合させることができません。

悪が分離したままですので、過去の自分と同じように支配できない自分を誰かにみつけた時、あいつは悪いやつ・・・・・・として取り扱われていきます。ので、他者との折り合いが悪くなります。

そんな折り合いの悪い他者に対して感謝などひとつも感じませんので、やはり自己統合は難しくなります。

悪意が入り込むこと

自己分離させる理由として、悪意があります。

自己分離者にとって、分離対象は悪であり、自分が善でしかありません。

ですので、悪に対して率先的に、もしくは無自覚的にも悪意を押し付けていくことがあります。

分離している人は「自分は善である」という意識で自分を保とうとしますが、他者からすれば「自分は悪である」という視点を受け入れていくと、そのまま、悪に没することがあります。

自分が善である絶対的な信仰を持てない場合、自分が悪であるが故に――の状態になっていきます。

ただ、どちらも分離意識的です。

基本的に人には存在というものがあったとしても、そこに善悪はありません。

悪とは、過去に親に排除された自分でしかないってことですね。親に認めて貰えなかった自分が悪としてくすぶります。

その悪の自分が歳を重ねて自我意識が薄くなると暴走したりします。

善の自分を盲目的信仰をしていたとしても、悪という自分を無視しているので人間的に欠落した何かが生まれます。

そして、善の自分がある代わりに、誰かが悪でならなければならない場合、誰かに悪意を押し付けることがあります。基本は弱者に対してですが、嫉妬は強者に向けられていきます。

この悪意が心に溜まっていくと、ひたすら悪について頭をぐるぐるとさせていくことになります。

誰かが悪いと、誰かを攻撃し続ける善の自分が自分の中で争います。これを葛藤とも言いますが、あんまり精神上、良いものではありません。

この誰かを攻撃し続ける思考に飲み込まれ、最終的に「自分が正しい」だけになるとき、自己正当化のために事実をねじ曲げていくこともあります。

心の中に悪意が溜まっていきますが、本来は、誰かが善である代わりに、誰かが悪をひきうけてくれているだけの話でもあります。

心の中に悪意が溜まるようであれば「私に悪意はありません」と唱えていくと、相手の善悪に飲み込まれなくなっていくかと思います。

つまりは、自分は善でしかなく、他者の中にしか悪が見つかりませんので、その為に悪人を生み出し、その悪人役を強いられることがたまにあります。

また、それは自分にも言えることですので、相手が善であるならば、自分も同じだけ善であることに気づき、どちらかが善であり、悪であるという歪んだ認知を戻す必要性があります。

また、この悪意というものが他人から預かっているもの。(誰かが善であるがゆえに自分が悪人になっている)

自分が善であるがゆえに他人に悪を押し付けているもの。(自分が善であるがゆえに他人が悪人になっている)

の両方を改善する必要性があります。

自己統合とは、このとき、自己都合的に相手を悪にする場合、統合がなかなかできません。自分の非を認めることが難しいからですね。

しかし、自己都合的ではなく、本当の意味で相手のためを思っている心の元に「それは悪いことだ」と教えてくれる場合、もし、分離をしたとしても統合意識へと変わっていきます。(この場合、なぜなのかの理由まで明確です)

教えて貰えたことへのメリットがあり、自分のためになったからですね。気づきの上に感謝が生まれます。

この感謝が自己統合へと向かう最大のポイントです。

自己統合をするためのポイント『感謝』

自己統合には気づきによる心からの感謝が必要です。

ときにトラウマを植え付けてくる人――この時、トラウマとは自分が善であるが故に相手に悪を押し付ける際に悪を押し付けられた側が生じる自己分離のこと――に対しても、なにかに気づき、感謝することで自己統合されていきます。

この感謝とは許しも含まれており、離別も意味します。

気づきとは、高等な思考により生まれます。

それは状況を、自分を脱して判断していくことになりますので、思考力が必要です。

教えられた善悪を学ぶのではなく、考えることでしか気づきは得られません。

心からの感謝とは、根っこにある心までもが理解した際に生じる感動です。

感謝とは悟りという気づきを得た仏性にあります。

このときの私たちは、善悪という洗脳が解かれ、事象のみを受け取っています。

事象のみとは、事象においての感情処理が終わった状態です。

感情が善悪をうみ、感情が引き抜かれ事象のみを観察するとき、私たちは気づきを得て感謝の心を持つということです。

感謝できないことに感謝しても意味が無い

なかなか感謝できない人に無理やり感謝しても意味はありません。

必要なのは、感謝ができない自分と向き合うことですので、感謝を口先だけで述べ続けても、あんまり効果はありません。

やらないよりかはマシかなとは思いますが、感謝を口先だけで言うことが『感謝だ』と思うと、発展がありません。

表面的には関係性を円滑に進めることできますが、そこに心がないものはないです。

ないものはないので、仏性があるわけでもなく、裏に気づきがある訳でもないので、空虚なものかなと感じます。

言葉に心が乗って言霊となりますが、言葉に心が乗らないならば、そこには『何が乗っているのか』でもあります。

人は虚無に多くの幻想をみる生き物だとも思います。

ですが、感謝を伝えられる人は礼儀正しいとは思います。礼節はありますが、本当の意味での礼がないって感じでしょうか。

見えない部分のことではありますが、自分のことは自分がよく知っているものかなと思います。

自己分離は悪なのか

自己分離状態は、自分にとって都合の悪い状態かと思いますが、誰かにとっては分離状態の方が都合がいいことがあります。

自己分離しているとアダルトチルドレン状態ですが、悪の自分と向き合うことが中々出来ない人も多いのです。

どうしても、この人の事は感謝できないとか。

どうしても、自分の非を認めたくないとか。

どうしても、この人が悪でならなければならないとか。

自己分離させておくことで自分を守っている状態のほうが自分にとって都合がいいことがあるんですね。

ですが、大人になるとは非を認め、悪を認めていくことでもあります。

自己分類させている人はプライドが高く、代わりに、後々、後から失敗をしやすいです。

最初に自分の失敗を認めておくか。

現実で失敗を目の当たりにして受け入れるのか。

その人の人間としての成長によりけりですので、どっちがいい悪いってわけでもありません。

このように、自己統合をしよう! と掲げてはありますが、自己統合を絶対的にしなければならないわけではありません。

先に精神で受け止めておくのか、現実で目の当たりにするのかっていう違いで好き嫌いの問題です。

善悪が自己統合されると状況が好転する

私たちは、物事を善悪という視点でしか捉えられない場合、基本的には問題が滞ります。

争いばかりになります。

しかし、善悪が統合されることで課題の解消がすまされていきます。

課題が解消されると、自分の中にある悪の対象との関係性が感謝の関係性へと切り替わっていきます。

意識が変わるので現実も変わっていきます。単純に見え方が変わりますので、私たちの言葉や態度が柔和し、攻撃性がなくなりますので会話も変わるかなと思います。

関わり合いたくないほどの関係性だったとしても、感謝に変わると関係性が解消されてしまうので縁が切れたりなどもあります。

善悪で結びついた縁は切れますし、感謝で結ばれる部分で結ばれていきます。

どんな事物においても感謝になっていきますので、カルマ的な問題が激減していきす。

自己分離者と関わって、自己分離的な関係性しか構築できないわけではありません。

自己統合されると、相手の自己分離が触発されませんので問題が起こりにくくなります。

 

自己分離だと、善悪により引き合い、

自己統合だと、感謝により引き合います。

いかなる良縁も感謝による繋がりかと思います。