私自身が鬼憑きでしたので、過去に二度ほど、夢で鬼を視ています。
夢でさえ、 鬼を視ると怖いと感じます。ので、私がわかっている範囲での鬼憑きとは何か? について説明させてもらおうと思います。
まずは私が経験した鬼についてのお話から書いていこうと思います。
目次
私が経験した鬼に憑かれて祓うまでのお話
私の家系は『鬼憑き』なのかなと思います。
父が節分生まれであり、姪っ子もまた節分生まれです。
節分は吉凶混同として占いでは捉えますが、運気の境目となる去年と今年の間ですから、境界から鬼が入り込むので、豆まきをして鬼を外に追い出す必要性があります。
私は節分生まれではありませんが、父に鬼が憑いているので必然的に私も鬼憑き状態になります。
また、姪っ子も鬼憑きですので、姉夫婦のところにも鬼が介入します。
ので、姪っ子が可愛い私は必然的に鬼憑きになります。
鬼退治をするのは桃太郎ですが、鬼憑き自身も桃太郎気質を持っています。(私も鬼退治しているので桃太郎気質ですね)
では、私が経験した鬼退治のお話を書きたいと思います。
一回目、作務衣さんの儀式により鬼(般若)をとってもらう
鬼といっても、多様にあり。女性の怒りは大抵『般若』となるような気がします。
大事にしてもらえなかったことへの怒りです。
夢を見たのは、姪っ子が頻繁に泊まりに来ていたときですので、姪っ子についてた鬼なのかな? と思います。
私自身にも大事にして貰えなかったことへの怒りがありますので、鬼が憑くことで倍増の怒りとなり、コントロールを失うことにもなりかねません。
さて、この般若ですが、夢に出てきた作務衣さんが私の中から抜き取ってくれました。
作務衣さんは、私が困ったことになると助けてくれる存在です。仏教系のほうで修行されている方々で、仏さんにお仕えしてお仕事をしています。
その仕事のひとつとして『鬼をとる』わけです。
とは言えども、鬼をとっても大丈夫にならなければ、鬼をとって貰うことはできません。
作務衣さんには最後に「鬼にも感謝、部屋(家)にも感謝」と言われ、頭を鬼へ私に下げるように促されました。
それから「オトコに注意するように」と言われ、こちらの世界の言葉と私を一致させるように促し、私は目覚めました。(向こうの世界の意識に引きずられてしまうと、見なくていいものを視てしまうのだと思います。言葉が無駄な霊感を抑えます)
般若が入っていることで、ろくでもない男から守られている状態になっておりました。
そして、家があることや部屋があることに感謝をする気持ち。衣食住の『住まい』への感謝を持つことを促されました。
この年、姉は離婚し、家を変えました。
家があることや部屋があることへの感謝を失うと、夫に不満がでるようになり、般若に憑かれるのかもしれませんね。
私は未婚ですし、鬼憑きですから感謝の心があるわけではありませんが、鬼に取り憑かれないほどの自我の強さがありましたので、ろくでなしとは結婚しませんでした。般若憑きは、姪っ子というよりも姉であり。もちろん家系である私も般若憑きとなりますが、般若にも両側面があるのだと思います。
般若に本当の意味で取り憑かれることがなければ、鬼はろくでなしの男を近寄らせない。
般若に本当の意味で取り憑かれていれば、鬼はろくでなしと結婚をし、夫への不満が生まれます。
根底には『夫への妻の不満』があります。女性が持つ男性への不満は、般若という鬼が取り憑かれることになるのでしょうね。
ただし、般若は『ろくでなし(未熟な男性)を近寄らせない』ことはできますが、良縁を持ち込むことはできません( ˇωˇ )
独身の相になりますね。暫く、鬼が御することが出来るまでのメンタルが育つまで恋愛が続きます。
もしくはろくでなしと結婚するのか(離婚)の二択です。
二回目、背中に憑く小鬼を背負い投げする
二度目は節分のことです。こちらが私の本命の鬼となります。
私は幼少から「親にいつか殺される」と思っていましたので、子鬼が屋根の上で「こいつを釜で殺したい」と話し合っておりました。
夢中夢から覚め、金縛りのなか、
ウオオオオアアアア\( ‘ω’)/アアアアアッッッッ!!!!!
と叫びながら金縛りを解き、背中に憑いている鬼を背負い投げしました。
これにて子鬼が外れました。
こちらは自分の中で「心を鬼にする」ことが出来るようになるまで憑いているようです。
私は激甘で人に強くでることがほとんどありません。超絶、人に甘いです。
ですが同時に、ものすごい怒りを抱えており、怒りの感情が分離しておりました。それは殺意にまでなっています。
人を傷つけることを私自身に許せませんでしたし、それがもし私利私欲であれば、本当に自分が許せません。
姉は逆で、私利私欲のために人を傷つけることができる人ですので、姉への怒りは凄まじいのです。
ですが、したらいけないことはいけませんし、言ったらいけないことはあります。ので、心を鬼にしてダメはダメと伝えることが出来るようになったときに子鬼は投げ飛ばされました。
「おまえが〇ね!!」
と、言いながら・・・・・・。
鬼とは『甘え』の象徴?
鬼とは甘えや依存の象徴だと私は感じています。
ほかにも鬼の種類として、愚痴、怒り、無知とありますが、私に憑いていた鬼は、愚痴という般若と、怒りという子鬼かと思います。
両親自身が子供の部分を残し、依存心が残っているとき、夫婦喧嘩が増えます。夫婦間が冷えたりなどもありますね。
とにかく、両親の関係が悪くなると、節分で鬼が入ってきます。亀裂がある部分に鬼が入ります。
夫婦喧嘩がヒートしたり、別居したりしますが、その際に鬼は子供にも憑きます。
子供は親に甘えなくなります。早くに自立していくように促されます。
鬼が持つ支配の象徴
たしかに、子は鬼で気が強くなりますので、自立後は『強い』わけですが、内面は脆く、支配することでしか関係性を構築できません。
結果、鬼のような人になります。
もしくは自分の中にある支配を抑制し、鬼退治へ勤しむ人もいます。
しかし、どちらも『恐怖』を根底に強く持っています。
人を支配して関係性を構築するのか。
人に支配されて関係性を構築するのか。
のどちらかですが、前者は鬼となって世に君臨します。後者は支配され、桃太郎になろうと努力する必要性があります。
桃太郎のお話は、思春期における善悪において悪を退治することになりますが、悪と一体化する人もいれば、正義感から悪を排除するひともいるということです。
鬼が憑いている人とは?
鬼が憑いている人の多くは、子供時代に甘えられなかったから大人になったはいいが、支配的な関係性しか構築できない人たちに憑きます。
夫婦喧嘩が絶えず、その際に子に鬼が継承されていきます。
鬼が憑いている人達のなかでも、鬼退治する人と鬼となる人の二種に分類されますが、根底に『正義』があるかどうかです。
鬼を祓うとどうなる?
鬼が憑いている状態になると、甘えや依存の部分がヒートを起こし、怒りは爆発状態になったりなど、問題点が浮き彫りになります。
基本的には、課題が浮き彫りになっているとも言えますが、鬼がはいることで問題が肥大化となります。
その際に、色々な揉め事が生じやすいです。
向こうの世界の人たち(たとえば作務衣さんとか)が鬼をとってくれる状態になるには、自分の心を鍛える必要性があります。
ですので、鬼をはらっても原因となる心理的問題があると、そこに付け込まれて再び鬼が介入します。
ですが、一時的にでも鬼が祓われると、状況が落ち着いたり良縁が得られたりします。
鬼が神となるか、邪となるか
鬼は神でもありますし、邪でもあります。
どちらになるのかは宿主次第とも言えるのではないかと思います。
鬼退治をする桃太郎のお話から
鬼退治をする桃太郎のお話は、三びきのお供を連れ、私利私欲に溺れて奪うことがやめられない鬼を退治して、鬼を従える――というお話ですね。
もしかしたら、大元は、私腹を肥やす豪族を桃太郎がやっつけるお話だったのかもしれません。
私たちの中には利欲があり、自分ばっかりがいい思いをしたいから人から奪ったりして犠牲の上に成立する利益を貪る意識があります。
赤ちゃんのような存在とも言えるかもしれません。
大人になっていく私たちは、今度は自分が与える側に回っていくことになります。
しかし、子供の自分はまだまだ甘えたいし、親から受け取りたいし。
桃太郎は、鬼退治の旅にでますが、もし桃太郎が自立の旅にでたのであれば、この旅は自分の中に存在している、まだまだ甘えたい自分をやっつける自立の旅に出たのかもしれません。
鬼の役割について
鬼は私たちの依存や甘えに宿り、自立を促します。
もし、私たちの中に鬼が宿り、鬼が憑久野であれば、それは鬼が私たちを自立させようとしています。
昨今の私たちは、思春期における反抗期と呼べる自立の段階で親に甘えを残したり、癇癪を残すこともあります。
そんな私たちの依存心には鬼が宿り、鬼は支配をするか。はたまた、依存を断ち切るための棍棒となるのかは私たち自身にかかっています。
鬼が憑くことは、ケンカが増え、否が応でも自立が促されるようなカタチへと向かいますので、正直、あんまり憑かれたくないものだなと思います。
しかし、鬼もまた神のひとつであり、子供を守る神が般若でもあります。自立を見守る神とも言えますね。
この世で生きていくには戦わねばならないこともたくさんあります、優しいだけではどうしようもないことがあります。
鬼の力を借りねばならないこともあるのだと思います。
私たちは、私たち自身の私利私欲を支配せねばなりません。そして、最後に鬼と仲良くなることは、私欲もまた人生において重要なことだと思います。
正義(桃太郎)があれば、利欲(鬼)がいます。
利欲(鬼)を押さえ込み、道理に目覚めたとき、私たちは桃太郎という『桃』の季節を迎えます。
正義に利欲が吸収され、私たちは立派な大人へとなっていきます。
子供はいつか大人になる。それが道理であるからです。
これが『理義』と呼ばれるものですが、それまでは『利犠』という利益(鬼という支配者)と犠牲(鬼に搾取される側)の関係性かもしれません。
支配と犠牲の関係性を抜け、正義と道理の世界観へと切り替わるとき、私たちは鬼のい世界から抜けていきます。
理義の道への導きが鬼の役割でございます。