私たちは生きているなかでどれぐらい死を受け入れることがあるのでしょうか。
私たちに忍び寄る死とは、
- 自分の死
- 誰かの死
です。
私は人生の中で何度か自分の死を受け入れてきました。自分の死とは、自分が死ぬかもしれないってこと。
誰かの死は、誰かが死ぬかもしれないってこと。
この『死を受け入れる』とは、私たちの中で大きな変化をもたらすことに繋がっており、死を受け入れることで私たちは大きく進化を遂げていきます。
しかし、別に本当に死ぬ訳ではありません。
ただ、心の底から「あー自分はこれから死ぬんだな・・・・・・」ってことを受け入れるとき、私たちは一度死に、ふたたび再生をすることになります。
今回は、死が私たちに大きく人生を変えるトリガーとなることを説明していきますね(*^^*)
目次
自分の死を受け入れるとは?
今回、2020年には大きな私たちに忍び寄る死がありました。
この疫病で私も大打撃を受けて、具合を悪くしました。死を覚悟しました・・・・・・私たちは、このとき、多くの人たちと共に、死を覚悟したり、もしかしたら死ぬかもしれない現実に直面しました。
その際、私たちの行動は色々な形ででてきました。
ある人はヤケになったり、ある人は神経質になって人に当たり散らしてみて、人をコントロールしようと自粛警察と呼ばれる言葉まで生まれました。
そんななか、本当に具合が悪い人たちは、家のなかでひっそりと過ごした人もいるかと思います。
あのときの私たちは未知のウイルスによって、心も身体も未来について考えざるを得ないような状態であり、死を意識することになりました。
未知すぎて、感染すると死ぬかもしれないっていう恐怖があったんですね。
これがひとつの『集団アセンション』と呼ばれる兆候のひとつです。
しかし、その中でも、死を覚悟することや死を受け入れるどころか、人のせいにしたり、自分を守ることに徹し、自分だけ良ければそれでいいと思っている人たちもいたのも事実かと思います。
つまり、死を受け入れた人もいれば、死を受け入れることから逃げた人もいたということですね。
自分の恐怖と向き合った人もいれば、自分の恐怖から逃げ出した人もいる。
恐怖は自分の中からやってくるものであり、外部からやってくるものではありません。
今回は死を受けいれた人たちがどうなるのか――ということです。
死を受け入れるとは、ある種、事実を真っ直ぐに見つめ、自分自身を受け入れていくということです。
死を受け入れた人達のなかでは、
- 死を受け入れる(事実を受け入れる)
- 死にたくない(自分の本心)
の意識がせめぎ合いを起こしていきます。
事実として直面している死を受け入れることになると、私たちは「死にたくない」という気持ちがはっきりと明確に認識されるとき、私たちは、その方向性へ人生の舵をきるようになります。
死というアップデート作業
私たちは
死にたくない!!!!という強烈な思いを抱くとき、私たちは窮地に瀕している状態とも言えます。
そんな状態で強い願いを生んだことになり、私たちはしなない人生の方へ切り替えられていきます。
つまり、本当の意味で死を受け入れるとき、私たち強く死にたくないという本能にスイッチが入れられます。
これは第1チャクラにスイッチが入ったようなものであり、私たちは本能的に死を回避する人生を歩むようになっていきます。
これがひとつのアセンションでもあり、ひとつの人生の梶をきることでもあり、私たちの考え方や生き方に変化を与えるようになります。
身に迫る現実と向き合い恐怖と向き合うことは、第1チャクラを開き、人生を大幅にアップデートすることに繋がっています。死を受け入れると人生が変わるとは?
上記のとおり、私たちは死と全力で向き合うことで、私たち自身の中にある生命維持装置にスイッチを押されるようなものでもあります。
死を受け入れるとは、私たちの生命維持装置のスイッチを押し、私たちが今のままではいけないことを受け入れていき、進化せねばならないと感じることに繋がっています。
死を受け入れるとは、直接的には人生を変えるというよりも、自分自身のメカニズムそのものを変えてしまうことに繋がっています。
レイキ死にたくないならば、自分が変わって死を回避するようなメカニズムに切り替えてしまおう。いざ、覚醒!という心理的にも肉体的にもアップデートされることが起こりえます。
レイキでも、臼井甕男先生が断食をしていたり、修行される方々が死と向き合おうとするのは、自分の覚醒を促すことでもあり、自分の存在を人間的にアップデートすることに繋がっています。
2020年での出来事は、多くの人たちが恐怖によって覚醒スイッチをいれたようなものでもあったのでした。
ほかにも人生の中で死を受け入れるようなことがあると、もちろんアップデートのスイッチが入るために、自分自身が変化してしまうことがよくあります。
それぐらい私たちにとって死は大きな意味を持っています。
死を受け入れると破壊され、再生と生を生み出す
死を受け入れることは、別にその後、死ぬ事が確定することではありません。
ただ、頭の中で
このまま行くと死ぬんだろうなァという事実が成立し、死の事実を受け入れることで、人生の舵を生へと切り替える作業が起こります。
それは、今までの人生観や今までのやり方だと、私は死ぬことになった――というケースが自分の中で完了したということです。
つまり、今までの自分を破壊し、新しい自分を再構築する必要性が生まれます。
第1チャクラが持つ『死と再生』のスイッチは、私たちのい今までのやり方や人生観が自分の死を呼ぶならば、原因を破壊し、ふたたび性別を呼ぶ形へと自分を進化させていきます。
パンデミックの際の私たちは、多くの人が死の危険に晒されるような現状にぶち当たり、自分を破壊し、再構築することが余儀なくされたということです。(それでも自分を変えないひともいましたが。)
私たちの精神の中に『死を向かい入れる存在』『自分にとって危険な存在』がおり、その存在を排除し、新しい人生を再構築することになります。
これが第1チャクラの覚醒スイッチでもあり、覚醒は一時的に起こり、不思議な現象などを多く起こしますが、最終的には覚醒が終わるとそれが正常状態に落ち着きます。
死を受け入れ人生が変わっていく経緯
- 従来の人生で死を脳内で迎える
- 死の世界線の破壊
- 新しい生による人生を歩む
つまり、従来の人生では死ぬことになったから、新しい人生に切りかえて生きるという方向性を見つけることになった――ということですね。
人生が破壊され、人生が再生することで、人生が変わることにつながっています。
その際の破壊から再生の間に、何度も何度も破壊をされていきます。
- 死を受け入れる
- 死に繋がっている原因について破壊し続ける
- 生に繋げる
というサイクルになっています。
誰かの死を受け入れること
誰かの死を受け入れることも、私たちのなかで変化を迎えていくことがしばしばあります。
それは、誰かの死が自分の死に繋がっている場合なども関係しております。
全体的には、自分が死ぬかもしれないという部分に誰かの死が繋がっていることもしばしばあり、依存というテーマと繋がっています。
依存して生きると死による革命が起きる
依存とは色々とありますが、誰かがいないと生きていけないという心理状態もそうですし、自分自身が死ぬかもしれないという事実を誰かに自分の生を預けて生きることで、死と向き合うことがないことがあります。
つまり、依存ではなく共生できていないとき、私たちは依存の部分を死によって強制的に共生へと切り替えることが出来るということです。
その際に、共生できない自分勝手な人は排除します(危険だから)し、関わらない方の切り替えます。相手の人生を背負っているのであれば、相手に人生を返しますし。
自分が生きることに忠実であるかどうか。生きるために懸命であるか。依存して誰かに頼って自分の命を誰かに預けてはいないか――という無責任な部分が自分にあると、死に直面した際にリセットボタンが強制的に押されることがあります。
しかし、死に直面していたとしても、死を意識しない人などもいて、そういう人たちはリセットされません(ので、人生が変わることはありません)。
元々依存して生きることが許された時代だったのかもしれませんが、これからは共生する時代にきりかわる時とも言えるのではないかなと思います。
共生するためには精神的自立が最低限必要ですが、自立と自分勝手は違います。
自分勝手――共依存――自立
自分勝手な状態も自立しているように感じられますが、共生による自立は、依存と支配という構造から抜け出しています。
自立している人が自分勝手になっているのであれば、依存ではなく支配があり。
依存している人が共生しているのであれば、自立している。
つまり、死とは依存部分がどれだけあるのか――の部分に自分が殺されているのであれば、再生を迎えることがあります。(自分が死んでいるからですね(‘ω’ ;))
同じように、人を殺している(支配する、自分勝手)場合は再生を呼びません。なぜならば、再生する必要性がないんですね。
これが肉体レベルで再生されたのが、今回の2020年のアセンションと呼ばれるものかなと思います。
肉体レベルで認識し、精神に作用したということであり、第1チャクラに直接的に作用されたかと思います。
精神レベルでも事実として死を未来に認識することがあれば、人生が変わることがよくあるかと思います。
それぐらい人は「生きたい」と、強く欲求している状態なのだということです。
死を意識してアップデートする理由
何度も死にかける理由ですが、自分のなかに「生きたい」という強い欲求が感じられていないことも関係しているかもです。
誰かに支配されている、誰かに依存されたりしている――という状態は、健全な第1チャクラには繋がりません。生きたいという欲求に繋がりません。
私たちが人生が変わる必要性があるのだとしたならば、それは私たちの中にある依存心や支配によって関係性が不健全になっているからですね。
人は支配や依存ではなく、共生によって成立しています。そこには信頼が必要ですが、信頼が構築されていないからこそ、支配と依存があるんですね。
支配や依存によって人生が構成されているのであれば、それは人生に変化が必要です。
死によって人生が変わる必要性があるとき、私たちの中には死が存在し、死を受け入れることで依存から共生への道へと切り替えることが出来るようになっています。
精神的に死んでいく時、肉体的にも死んでいくかと思います。
自分を肉体的に死に追いやる修行が従来ではありましたが、精神的に死に追いやることで肉体的な死にまで追い詰められるという現象が昨今では増えているのかもしれません。
そうやって私たちは生命維持スイッチを押すことで、大きく時代を切りかえたり、考え方や人生観を変えたりなどしていき、時代を生きていくことになります。
つまり、別に依存や支配が悪という訳ではなく、時代が変わってきたので、考え方を変える必要性があり、その必要性がある人達は、今回、大型アップデートに参加したかもですね。
でも、別にアップデートしなくてもいい人たちもいたし、アップデートを回避した人達もいたかなと思います。
向き合い方はそれぞれであり、それでも、自分の肉体レベルで進化を促されたときに大きく人生が変わることはあります。
死と向き合うことは、生きることに直結しています。
死を受け入れることは、生を受け入れることにも繋がっています。
これからなにがあるのかはわかりませんが、肉体レベルで『毒』というものに適応していくことも大事なのかなとも思っています。
毒だから排除するのではなく、毒であろうが摂取して自ら解毒できるシステムを構築するということです。
強い個体とは、何度死に直面しても、死の克服をしてきた個体なのだと思います。
今回は『人生が変わる』としましたが、死が繋がる人生が変わるとは、そもそもの肉体的な遺伝子や肉体の構造、免疫、精神構造を変えていくのだと思います。