レイキは、禅の境地の悟りである『安心立命』を目指す臼井甕男先生により編み出されたヒーリングの技術です。
臼井先生が悟りを得たときにレイキの力を手に入れたのであり、レイキの力は、私たちを安心立命へと導いてくれるエネルギーともなり得ます。
レイキは、特に西洋レイキは、多種多様な扱いを受けられるようになり、人体のみならず、パワーストーンや植物、食べものにもレイキを使ったりなどするようにもなりました。
しかし、大元にある臼井先生が悟りを得た際によるレイキは『安心立命』であり、また、死の恐怖・生の恐怖の克服をもはらむものかと思います。
こたびは、レイキを自己ヒーリングし続けた私自身が安心立命へと至る経緯で、わかる範囲で書きしたためておきたいなと思いました。
禅の悟りでは、安心立命——天命を知り、心を平安に保つことまたは、その身を天命に任せいつも落ち着いていること——へと向かっていきます。
確かにレイキをし続けていくと、等身大の自分を受け入れ、何かがあっても、心に波風が立つこともなく、生きることが出来るように徐々になっていきます。
目次
安心立命の悟りとは何か?
そもそも「悟り」とは何か——ですが。
悟りとは、どうして苦しんでいるのか——の道理をよく見極めることができることを意味しています。
苦しみの状態から抜け出すには、道理を見極めていき、最終的に苦しくない状態へと至ることを解脱と呼びます。
安心立命の悟りの境地にいたると言った場合、
安心立命の悟りとは、不安で立てない状態から安心立命へとたどり着いた人が持っているものということになりますね。
苦しみの状態⇒悟りの状態
へと切り替えていくことが解脱となります。
逆に言えば、苦しみのない人が悟ることはありません。
苦しみがない人は、安心立命を実践できている状態の方々であり、本来、人間は安心立命の状態を維持していると考えます。
ゆえに悟る必要性は本来はありません。しかし、苦しんでいる人達は悟っていくことで、その結果、安心立命に至ります。
臼井先生は「断食で決死の覚悟」だったため、死の恐怖を乗り越えたのかな? と思います。その際にレイキという悟りを得たということになりますね。
レイキを伝授される、レイキを受けるとは、臼井先生が得た悟りを受け取っているということになります。
臼井先生の悟り(レイキ)によって、私は安心立命へとなり、救われたってことになります臼井先生には足を向けて寝ることはできませんm(_ _”m)
安心立命とは? 招福の秘法から読み解く
臼井先生が残してくれた言葉。
【招福の秘法】今日だけは怒るな、心配するな、感謝して、業を励め、人に親切に
と、ありますが、臼井先生のなかでは
- 怒りがない
- 心配がない
- 感謝がある
- やるべきことを懸命にやる
- 人に親切にできる
この状態が安心立命の状態だと伝えてくれているかと思います。
怒りや憎しみがなくなり、穏やかになる
腹が立つことが減っていき、憎しみも減っていきます。
私たちがどれだけ人の温情により許されているのか——という視点に到達していきますので、自分が大事にされている、愛されている・・・・・と感じる視点へと、怒りや憎しみが変換されていく感覚がします。
怒りは、自分を大事にされていないと感じたとき。
憎しみは、恥をかかされたと感じたときや愛されたかった思い。
などなど、自分の想う通りの現実が戻ってこなかったときに感じやすい感情ですが、全くもってそんなことはないのだという視点に至っていきます。
心配がなくなり、思考が減る
普段の生活で変化したことと言えば、頭のなかでずっと考え事をするようなことがなくなり、誰かのことで煩わされることがなくなりました。
くよくよ過去のことで悩むこともありませんし、未来のことでも悩みません。
普段、とてつもない量の思考をしていたかと思いますが、その思考の量=未回収の感情の量と考えられます。
感情の解消をしていけばしていくほど、自分のなかの思考が減っていきます。
途中では「何も考えられなくなってきた」と感じますが、心配がなくなってきたので、考えなくてすんでいる状態になっていきます。
感謝が生まれてくる
誰かが何かをしてくれていることに気づいていきます。
農家さんがいて野菜があることに気づきますし、食器を洗ってくれている家族がいることにも気づきます。
誰しもが知っていることかもしれません。
しかし、頭ではなく心で感じ、心で受け取っていくようになります。
気づいたとき、ほんわかと心に感謝が生まれてくるようになり、ありがとうって思えます。
頭ではなく、心で受け取れるようになると自然に感謝が芽生えてきます。
自分の役割をやる
自分がどのような役割を担っているのか——という役割を受け入れていきます。
私はなかなか「女性の役割」という部分を受け入れることが出来ませんでした。
しかし、私は女性として生まれたのだから、女性としての役割をやろうと思えるようになっていきます。
取り分けて何か凄い役割をしようとは思わなくなっていきます。
誰かに強い影響を持つ人物になってやろうとか、有名人になってやろうとか。すごいと言われるような人物になる——とか。他者により評価される自分になろうとする気持ちがなくなっていきます。
自分が持つ役割を自分が実行する。
承認欲求などで行動したりすることが減っていき、自分が自分のするべきことをすれば、ただそれだけでいいのだと自分を許せるようになっていきます。
人に親切にする
元々親切な方だったとは思いますが、行動力があがっていきます。
率先して何かをすることがドンドン出来るようになっていきます。
人が嫌がることもやれるようになるし、人に親切に優しく接することがデフォルトになっていく感覚がしています。
何かに憂いている気持ちもなくなっていくので、親切にすることへ拒絶感もなくなっていきます。
私なりの安心立命
私なりに安心立命とは、どのような状態なのかを書いてみようかなと思います。
- 等身大の自分を受け入れ、僻みや妬みがない
- 明日や未来のことを杞憂に思い、不安に思うことがない
- 過去のことでグズグズと思い煩わない
- 今、この瞬間に集中し、未来や過去、思考にトリップしない(今ココの実践)
- 他者と自分の比較に悩まされることがない
- 死への恐怖・生への恐怖がない
- 人に感情を押し付けることがなく自己完結的である
- 他者を「他者」として認識できる(投影がない)
- 日々、感謝すべき点に気づくことができる
- 人に親切にすることができる、優しく接することができる
- 何か問題が生じたとしても、動じることがない
- 自分の人生、自分の運命を受け入れる
- 自他共に、感情に振り回されることがなくなる
- 執着や欲求に振り回されなくなる
などなど、思い当たる当たりのことを書きだしてみると、このような感じでしょうか。
総じてアダルトチルドレンを抜け出したってところかと思います。
なぜ、安心できなかったのか?
レイキをしていくなかで、私自身が「なぜ、安心できなかったのか」の理由として他者との関係性があげられました。
人に何とかしてもらおうとする依頼心や依存心は、人が何とかしてくれる保証がないので安心が出来ません。
誰かがこうしたら、自分もこうする。という他人軸的な考え方は、いつまでたっても話が先に進みません。
自分の人生を他者に預け、自分の人生の責任をとることが出来ていない状態の部分が不安を生み出し、安心できない状態へとしていました。
私はレイキをしながら、自分のなかにある他者への依存心と向き合っていく過程で、自己責任領域を広げていき、安心を作り出していきました。
つまり、他者が信用ならないのが、安心できない理由でした。
信用するべき部分で信用できず、腹を立て。
信用すべきでない部分で信用し、不安に陥っていたのです。
結論的に言えば「何も考えていない人」みたいになる
元々、いっぱい考え事をして先のことばっかり考えていた身からすれば、何も考えていないすっからかんな感じになります。
確かに、今の現状に安心しきっていたら、何も考えなくなるような気がします。
最初は違和感しか感じられませんが、ストレスフリー状態になっていきました。
安心して、今の自分の体のなかにすっぽりおさまっているような感覚です。
体は心做しかぽかぽかしている感覚もありますし、何もしていない時間に罪悪感を感じることもありません。
未来を考えて、今を構築することも知恵のひとつではありますが、怖い未来を想像して今に備えている状態は常に恐怖の未来がそこにあり続けているようなものです。
そんな未来の恐怖や不安から逃れられた状態で、未来に希望がいっぱいになるわけでもありません。
ただ、淡々と日々を生きているような感じです。
それは、何も考えていないけれど、心だけがいつも温まっているような感じでしょうか。
無理もしなくなり、頑張ることもなくなります。背伸びもしなくなります。
普段の生活の疲労度はまるで違いますし、外出時の疲労も変わってきます。
ずっと外敵から身を守るようにしながら、ピリピリと神経を尖らせながら生きてきたんだなーと実感します。
安心立命とは今ココの実践
安心立命とは、今ココに意識が集中していきます。
今にのみ、集中することは、意識が未来にも過去にも飛びません。
逆に言えば、未来や過去にレイキは意識がを飛ばすことができます。
レイキの2ndの段階では、未来や過去にレイキヒーリングをかけることが出来るようになっていきますので、過去や未来に意識が飛ぶ原因へアクセスができるようになります。
レイキは意識が飛びやすい原因を叩くことができる。
その結果、今ココを実践できるようになっていきます。
今ココに意識が集中し出来るようになっていくと、最終的には安心立命が体現できるようになっていく――ということですね。
